母という女性
母ほど自身と他者とが曖昧な女性はいない。
そんな言葉を目にした。
なるほど。そうかもしれないと納得できた。
命を宿して自身の中ではぐくむ間、自分の身体だけどそこに他者の身体も存在する。
産むことで身体は離れていくが、自身の血液を与え他者をひたすらはぐくむ。
産後の身体は良く出来ていて、授乳時間になるとスーっと目がさめる。自分の身体が他者のために目覚める。ご飯を食べるのも水を飲むことも自分の身体を維持するためと同時に、他者の身体を維持するためにもなる。
他者が自ら食べようとする時でさえ、あれこれ悩み手を尽くす。
他者の喜びが自身の喜びであり、他者の涙が自身の心の叫びとなる時もある。
わたしはどこにあるのか。
だれかを愛しだれかに愛されたい。
美しいと感じ哀しいと泣きたい。
わたし自身のために。
それができた時、わたしはもっと他者に近づく。
曖昧さがさらに曖昧になり、自身と他者との境目がぼやけてしまう。
だれかの苦しみや喜びを孤独でさえも自身の中に吸い込みたいと思ってしまう。
わたしの想いや愉しみを悲愴感をもだれかと分けあいたいと思ってしまう。
母になればなるほど、どんどん曖昧になっていく。
今は、それもなんだか嫌いじゃないなぁ。
秋風の心地よい昼下がり。ぼんやり曖昧なことを考えた。